映画ごときで人生は変わらない 

不穏映画が大好物のアラカン女 不穏度を数値化しています 感想と考察が入り混じる映画レビュー すべて個人の感想です

【急に具合が悪くなる】感想/意外にもエロス&バイオレンスな作品でした…

基本情報

公開年: 2026年

監督:濱口竜介

脚本:濱口竜介、ルディムナ玲亜

主なキャスト

ヴィルジニー・エフィラ(マリー=ルー・フォンテーヌ 役)

岡本多緒(森崎真理 役)

長塚京三(清宮吾朗 役)

黒崎煌代(窪寺智樹 役)

上映時間:196分

あらすじ

<以下、公式サイトより引用>

パリ郊外の介護施設「⾃由の庭」の施設長であるマリー=ルー・フォンテーヌは⼊居者を⼈間らしくケアすることを理想としつつ、人手不足やスタッフの無理解などに悩まされている。そんな中、マリー=ルーは森崎真理という日本人の演出家に出会う。がん闘病中の真理が演出するのは、自閉スペクトラム症の孫・智樹と行動を共にする俳優・清宮吾朗の一人芝居。真理の描く演劇に勇気をもらったマリー=ルー。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて、二人の交流が始まる。しかし、あるとき真理は「急に具合が悪くなる」。真理の病の進行とともに、二人の関係は劇的に深まり、互いの魂を通わせ合うようになる……。

評価

残念なことに、ワタシにはハマりませんでした…。昨年から楽しみにしており、原作本まで読んだのですが…。

もちろん、世の評価は高いし良い映画だと思います。

ハマらなかった理由ははっきりしているんですよ。中盤に出てくるとある場面のせいです。あまりにも衝撃的だったので、それ以降が頭に入ってこなかったのです…。

詳細は後述するとして、実はこの作品、「恋愛もの」なんじゃないか?とも思いました。それも非常に過激な。愛とバイオレンスを描いた映画。

考えることがありすぎて鑑賞後しばらく寝かせてしまいましたが、とりあえず今思っていることをつらつら書いてみます。

感想

衝撃的すぎて混乱

父親が倒れ半身不随になり6年。要介護3です。主たる介護者は母ですが、高齢のため週1〜2日は実家に赴き、何かしらの用事をこなしています。

また、ASD の子を持つシングルの知人がおり、よく話の聞き役になっています。はっきり言って聞いてる方がしんどくなる話が多いです。

そんな環境に身を置く者としては、認知症患者と自閉スペクトラム症の方が出てくる今作に、「そこに踏み込んだのかあ…」って思いましたよ。

公にはせずとも、ワタシのように身近に要介護者や障害者がおり何かしらの関わりを持つ人は多いはず。もちろん、あるいは自身が、という方もいるでしょう。

こういう「パーソナルで重い現実の問題」と映画というメディアってなんか食い合わせが悪い気がするんです。

映画館ではいつも「これから2時間、父や母の具合が急に悪くなってもワタシは駆けつけられないんだなあ」と思いながらスマホの電源切ってるし。

不穏で薄気味悪い映画が大好物ですが、あくまでファンタジーだから。明日、猟奇殺人鬼に出会うとは思っていないから楽しめるのです。

だからこそ、今作の設定にちょっと仰け反ったのは確か。

ノンフィクションである原作には出てこない認知症患者と自閉スペクトラム症者を、フィクションである映画に入れてきたんだ…そうですか…って。良いとも悪いとも思いませんでしたが。

さて、映画はパリの介護施設のディレクターであるマリーと、そのパリで公演を行なっている演出家の真里とが出会う物語です。真里は完治の見込みのない癌を患っています。

公演終了後、意気投合した2人は街を歩きながら様々な話をする。

その時マリーのスマホが鳴り、急遽夜勤に入ることになります。マリーは真里を施設に連れて行く。

その時点で「えっ?会ったばかりの人を勤務先に連れてくるの?」と思いましたが「でも、まあそうしないと物語にならんしな」…とどうにか納得。

施設の待機部屋でマリーは真里にユマニチュードを教えます。

ユマニチュードとは認知症患者へのケア技法。「見る・話す・触れる・立つ」を柱とし、「相手をモノではなく人間として扱う」コミュニケーション方法です。

問題はこの直後。

ナースコールで利用者女性の部屋に呼ばれたマリー、ここにも真里を連れて行く。部屋のシャワールームでマリーは女性の尿取りパットか何かを外し、下半身を洗います。女性は大人しく言うことを聞いている。なんとこのシャワールームにもマリーは、真理を入れる。真里は女性に顔を近づけて話しかけます。それは良いのですが、この時、女性は下半身むき出しなんですよ。もちろん2人は初対面。

おいおいおいおいおいおい… 

これってユマニチュードなんでしょうか?

介護の問題が難しいのは一番大変な「下の世話」のことを共有しずらいからだと思うんです。介護経験のある知人と話をしても排泄処理の話はぼかしがち。何故かと言えば要介護者の尊厳を尊重するからです。

自分のことなら「間に合わなくて、うんこ漏らしちゃってさあ〜あはは〜」くらいは言えても、他人がお漏らしした話を第三者にスルッと話すのはいかがなものか?とブレーキをかけるのが人ってものです。(当事者が普段からバリバリに下ネタを言ってるキャラだったら別ですけどね)ましてや下のお世話をしている現場に家族でもなく、介護士や看護師でもない人が入るなど。

だからマリーと真里が、ナチュラルかつダイレクトにその壁を突破した事に驚いちゃってもう。

いや、いいんですよ?映画だし、フィクションだし。

でもついさっき「認知症の方を人として扱う」って話してましたよね?

ビックリした。本当にビックリした。

あまりの衝撃にここから先が頭に入ってこなくてですね…。

それがワタシがこの映画にハマれなかった理由です。

ただ、あれだけの監督が意味もなくこの繋ぎをするかね?と、後になって考えたんですよ。

この2人の「暴力的なまでの突破力」こそがこの作品の肝なのではないか?と。そしてその突破力は「恋」から生まれたのではないか?と。

まごうことなき恋愛映画

美しいパリの街を見下ろす雨上がりの公園で出会った2人。公演を観に行ったマリーと舞台上の真里は終演後のQ&Aコーナーで2人にしか通じない“日本語”で会話を交わす。他の観客から「フランス語でお願いします!」と声が飛んでも無視して見つめ合う。その後も会話は尽きず、離れられない2人はマリーの職場に場所を移し、夜通し語り合う。やがて夜が明けてくる…。

いや、どう見ても恋愛ですよね、これ。

性的な接触はありません。それでもこの関係がエロスでなくて何でありましょう。

「不気味なものの肌に触れる」という濱口作品に、ダンスをする2人の男子高校生が出てきます。振り付けは今作にも関わる砂連尾理 (じゃれお おさむ)氏。

2人が踊るコンテンポラリーダンスは、「触れそうで触れない」というもの。とてもエロティックです。そしてやはり間に“恋”に近い感情が流れているのが分かる。

相手まであと数ミリの距離がとても印象的で、大好きな映画です。

一方、今作の2人は実際に触れ合います。その理由もはっきりしている。中盤に真里が説明します。資本主義に疎外された身体を取り戻すためです。

失われたものを取り戻すには、暴力も辞さない覚悟が必要です。

その暴力性を表現したのが、前述の衝撃シーンなのではないでしょうか?

だってさあ、シャワールームで下半身丸出しにしている時に知らない人が入ってくるのって暴力でしょうよ。

考えてみれば「見る・話す・触れる」はいずれも暴力に通じます。でもそこを乗り越えなくては他者と関わることは出来ない。他者との関わりがなくては幸福な人生は訪れない。一枚の皮膚で覆われた、自我を持つ生き物の根本的な矛盾です。

より良い世界を作るため、暴力も辞さない覚悟で失われた身体を取り戻し、さらにその先を見せている。最後の光溢れる中庭の場面は奇妙でかつ、美しい。

この作品、実はかなりラディカルなように思いました。お上品なのに過激。

あともう一箇所、「これは暴力だなあ」と感じた箇所がありました。ワタシだけかも知れませんが。恋愛につきまとう暴力。ラブ&バイオレンスやん。トゥルー・ロマンスやん。恋に夢中な2人だからこそ後先考えずに突き進む。その道が変えがたい社会を変える轍となるのではないでしょうか。

気になる方はぜひ観てみて下さい。

ちなみにフランス語でのタイトルは《soudain》。「突然」という意味だそうです。恋はいつでも突然よね…。

また何か思いつくことがあれば追記するかもです。

「急に具合が悪くなる」公式サイト貼っておきますね〜。

www.bitters.co.jp

実はもう一つ、この映画にハマらなかった理由は、先に読んでしまった原作があまりに良すぎたからでは?と睨んでいます。こちらはノンフィクション。癌に侵された哲学者と、文化人類学者の往復書簡です。感動した!って言うありがちな言葉で語るのは申し訳ないのですが、本当にただただ感動しました。人生の大切な一冊になりました。

書籍レビューです。

kyoroko.com

前述の「不気味なものの肌に触れる」、また代表作と言える「ドライブ・マイ・カー」「ハッピーアワー」など濱口竜介監督作品は大好きなんですが、迂闊に感想を言えない気がしてほとんどレビュー書いていません。

なぜか今作と同じくらいハマらなかった「寝ても覚めても」と、前作「悪は存在しない」(こちらは大好き!)だけアップしています。くだらんことしか書いてませんがよろしければどうぞ。

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