不穏度
20(100を満点として)
基本情報
公開年:2024年
監督:トッド・フィリップス
脚本:スコット・シルヴァー トッド・フィリップス
キャスト:ホアキン・フェニックス(アーサー・フレック / ジョーカー)レディ・ガガ(ハーレイ・“リー”・クインゼル)キャサリン・キーナー(メアリーアン・スチュワート/アーサーの弁護士)ブレンダン・グリーソン(ジャッキー・サリヴァン)
上映時間:138分
あらすじ(“フォリ・ア・ドゥ”の意味)
※あらすじは公式サイトに掲載がないので割愛します
フォリ・ア・ドゥとはフランス語で「二人狂い」。精神疾患のある人の「妄想」が、恋人や家族など身近な人に伝染する精神疾患の名称だそうです。
評価
えーっとですね…中盤気を失いました。アーサー(ジョーカー)とリー(ハーレイ・クインゼル)が歌い踊る中盤のシーンで気が遠くなり、自分のいびきで目が覚めました、ハイ。いつもの田舎のガラ空きのイオンシネマで観まして、一番近い席の方でも5〜6席は離れてましたんでご迷惑はかけていないと思いますが、もしかけてたらすんません…。心からお詫び致します…。
が、しかしですね、寝たからと言って悪い映画だとは思いません。退屈なところはあったものの、前評判ほどヒドイ映画だとは言えないです。いやむしろ良い映画だと思います。最後なんて衝撃的だったしさ。
では、どこが寝ちゃうほど退屈だったのか?それでもなおかつ良い映画だと思えるのは何故なのか?以下、感想です〜。
注意!公開直後なのにごめんやけどネタバレありです!
感想
寝てしまったのはミュージカルシーン
一瞬寝てしまった理由、完全に言い訳なんですけど聞いてください。
前作「ジョーカー」では最後にアーサー(メイクをするとジョーカーに変身する男)が精神病院にいるシーンがあり、「ここまでジョーカーが巻き起こした騒動はすべてアーサーの妄想だったのか?」と観客をぞわぞわさせました。
事実上の「2」である今作は、「あれは現実だった」という前提で話がスタートします。アーサーは刑務所に収監され、5人を殺した罪で裁判にかけられようとしています。しかし塀の外では人気者。ジョーカー事件を題材にしたドラマが放映され、信望者も多い。
んで、「1」を観た方はご存知のように、アーサーはコメディアン志望ですがこっちが恥ずかしくなるほどセンスがない。笑ってはいけない場面で笑ってしまう脳の障害を持っている。家は貧しく母親と2人暮らし。気は優しいのに誰も彼を愛してはくれない。要は底辺の人間です。
そんなアーサーがピエロのメイクで豹変し、大胆な行動をする。そりゃ二重人格でしょ、ってなりますよね。今作の中の裁判でもアーサーの弁護士は「精神疾患を持っている」と主張。彼のためです。
そんなアーサーに恋人ができます。同じ刑務所内にいたリーという女性。レディ・ガガです。アーサーは彼女によって生まれてはじめて「愛し愛される」喜びを知る。この2人のシーンがミュージカル調で描かれるんですわ。歌の多いこの作品ですが、監督は「ミュージカルではない」と言っています。その主張するところも分かるんですが、観客からすると突然、大仰なセットの中で2人が歌い出すって、それミュージカルやん…?
ワタシがうっかり寝てしまった場面はまさにここでして…。いやミュージカルが眠たいってわけではなくってですね…。
基本、場面は刑務所と裁判所の往復なんですよ。全体的にグレーな暗い画です。前作のような血湧き肉躍るバイオレンスシーンもない。はっきり言って地味。
そこに極彩色のミュージカルシーンが挟まってきます。このシーンは明らかに「恋に浮かれている」アーサーの、リーの妄想です。前作や「キング・オブ・コメディ」のように観客が「え、これって現実?妄想?」と戸惑うことがない。はいはい、妄想、妄想ね〜。…つまりはこっちも退屈。んで寝ちゃった、というわけ。
もちろん、それぞれの歌の歌詞の意味をよく吟味すれば、素晴らしい世界が広がることでしょう。その解釈が出来ないワタシが悪いんですけど、眠気には勝てませんでしたすんません…。
良い作品だと思える理由はあのラスト
さて、「精神障害」が認定されれば無罪となるアーサーですが、彼はそれを受け入れません。刑務所内で渡される薬を飲まず、さらに“ジョーカーのファンだ”と言うリーにエエ格好したくて「ジョーカー」に人格を乗っ取られていく。実はこの作品内で「ジョーカー」が映る場面はごくわずかです。多くのシーンで目にするのは「底辺の男」アーサーのほう。アーサーの惨めな人生が裁判で明かされるくだりは…もうちょっとね…、こちらが耳を塞ぎたくなります。もちろんアーサー自身にも耐えられるはずはなく「ジョーカー」として覚醒してしまう。
それでも愛を知った男は再び「アーサー」に戻ろうとする。愛の力です。しかし女が愛したのはジョーカーであり、アーサーではなかったのです。そして訪れる本当の悲劇。
(注:以下ラストのネタバレしてます!!)
リーに去られたアーサーは刑務所の中でジョーカーの信望者に刺されて死にます。信望者にとって弱い人間であるアーサーは必要のない存在だったのです。しかしアーサーが死ねばジョーカーも死ぬ。どうするか?その信望者が次のジョーカーになるのです。
ゴッサムシティ(=現代社会)では最高の悪役ですらすげ替えが可能です。そして必要とされるのは「キャラクター」であり、弱くて複雑で孤独な「中の人」はいらない。
ラストシーンは息を止めたアーサーの姿。そして流れるのは「That’s Life」。シナトラの名曲をガガ様がカバーしたものです。
いや、このラストには呆然としましたよ(途中寝てたけど)。いくらなんでもアーサーがかわいそうすぎやしないか?!おい、トッド・フィリップスよ、おめえには人の心ってもんがないんか?!と。
しかしですよ?一晩経ってまったく正反対の思いが生まれてきました。
アーサーは偽りとはいえ「愛」を知りました。人生にこれ以上の意味はあるんでしょうか?
「ジョーカー」は底辺の人間が暴力で逆転を起こす様子が多くの観客にウケたわけですが、それはアーサーと私たちが共に見た「妄想」だったのです。妄想はいつか消えます。弱く孤独な私たちはいつかアーサーのように死んでいく。それでも一瞬でも愛を知ったのなら充分じゃないか?という話に思えました。つまりハッピーエンドとも言えるのですな、この映画は。
「That’s Life」、ガガ様の歌はとても切実な感じがしましたが、シナトラ版を改めて和訳付きで聞くと、人生の歓喜も諦観も混ぜこぜに溶け込んだ暖かな愛のスープのように思えます。
(1人の観客の中ですら)様々な解釈ができること、そして最後にこの素晴らしい曲を聴かせてくれたこと、それが今作が良い映画だと思える理由です。
(追記)面談に来たのは誰なのか?
さて、刑務所内で囚人に刺殺されるアーサーですがそれは面談者に会いにいく途中でした。面談者が誰なのかは明かされていません。推測させるシーンもなかった気がします。リー?女弁護士?そのあたりが浮かびますが、ワタシは証言台に立った小人症の同僚だったら良いなと思います。「アーサーだけが自分を馬鹿にしなかった」と言った彼は、映画の中で唯一、ジョーカーではないアーサーのいいところを知っていた人ですから。だとしたら本当にハッピーエンドなんだけどね。
おまけ。
先日「キング・オブ・コメディ」を観て実に面白かった!という話をしましたが、「キング・オブ・コメディ」は前作「ジョーカー」だけでなく、2作目でもある今作「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の下敷きにもなっています。
冒頭はジョーカーが大暴れするアニメなのですが、これは「キング・オブ・コメディ」の冒頭がテレビ番組であるのと同じです。その他は具体的にどこが、ということではないのですが、お話のベースとして「キング・オブ・コメディ」が流れているのが分かるので、今作「フォリ・ア・ドゥ」をより深く理解したい方は「キング・オブ・コメディ」観て損はないかと。
レビュー貼っておきます〜