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【映画周辺の雑記】松本人志を探して。

(今回は映画の話じゃないです)

ああ、ついに松本人志がいないM-1がはじまるんだな。

発案者の島田紳助がいなくなっても続いているんだから、きっと松ちゃんがいなくなっても粛々と続くんだろうな。換えのいない仕事なんて世の中にはない。
一年近く前、「松本人志の件とナンシー関の不在」という文章を書いた。タイトル以上の中身がない独り言だったんだけど読みに来てくれた人が多かったので、この問題に決着がついた時にもう一度松本人志について書かないとなと思っていた。
けれどそれから11ヶ月後に出た「決着」は(今のところ)「松本側が訴えを取り下げる」というもので、なんだそれ…しか浮かばず書く事ができなかった。
結局、文春の報じたことが嘘か本当か、あるいはどこが嘘でどこが本当か分からないということになっている(2024/12時点)。
この状態でテレビ復帰は難しい。彼は芸人であると同時にテレビタレントだから。テレビタレントはイメージを作るのが仕事だ。スポンサーにとって、そしてそのスポンサーの商品を購入するであろう消費者にとって「悪くない」イメージの人物でないとテレビに出すのは難しい。そんなこと、本人も周囲も百も承知でしょうが。

松ちゃん好きとしてはこう思う。
テレビに復帰しなくてはいけない、というのは事務所の都合ではないのか?本人はさほど望んでいないのではないか?
長い休暇の間に、お笑いをもっともっと考えたのではないか?と。
それを試すのはテレビでなくても良いはずだ。そりゃあ、テレビタレントとしても一流だったけど、芸人としての松ちゃんが好きなんよ。そこに客がいるのなら舞台でも配信でも路上でも、生きる場所はどこだってあるじゃない。
テレビタレントとしての松本人志は死んでも、芸人・松本人志は生きてて欲しい。

私が探している松ちゃんは「あの頃」の松ちゃんなんだろう。過激で生意気で尖っていて世間に苛立っていた。彼の笑いを理解できることはカッコいいと思わせてくれた。
もう戻らないことは知っている。成功し、歳をとり、カウンターを喰らわせる側から喰らう側になってしまった。
でもまたゼロから始めるなら、あの場所に立てるんだよ。頭にきてるなら、自分の中に正義があるなら、それを見せて欲しい。たとえ今の世の中からズレててダッセーってなったとしても。カッコ悪くても生き様をみせる、それが芸人とちゃうの?

なんて、見てるだけの人間が言うことじゃないけど、なんか…ね。